「トシ」
そう俺の名を呼ぶお前の声がいつまでも響き渡っている。
でももう、直接呼ばれる事はない―――
『最後にもう一度名前を呼んで』 〜嘆き、悔やみ、そして想う〜
ぼんやりと晴れ渡った空を眺める。
所々に黒くてデカイ物体が浮かんでいるが、それでもいつだって空は綺麗だった。
―――涙なんか出もしなかった、あの日も。
心とは裏腹に、綺麗に澄んでいた江戸の空。
風がそっと横をすり抜けていく度、煙がゆらゆらと揺れていた。
その時、ふいに風が強く吹いた。
……優しく響く懐かしい声と共に。
思わず俺は振り返った。
そこにはいつかの光景が鮮明に映し出されていた。
優しく響く、声。
いつもと変わらない笑顔。
太陽のように温かく眩しいお前が、そこにはいた。
名前を呼ぼうと口を開く。しかし声は出ない。
抱きしめようと腕を伸ばす。しかし体は動かない。
―――モウ遅イ。遅スギタンダ。
低い声が脳を掠めた時、お前の姿も見えなくなった。
「またかよ……」小さく呟く。
「忘れられねェ……」お前の事が。
振り返った拍子に落ちたのだろう、畳には灰が散っていた。
思わず声が漏れた。
「ちきしょう……」
灰を見つめながら、やり切れなさや苛立ちからくる震えを、俺は力一杯握りしめた。
丁度一ヶ月程前。
そう、お前の誕生日の数日前。
「何が欲しい?」
そう尋ねる俺に、お前は笑った。
「名前」
「あ?」
「名前で呼んで」
「……」
眉間にしわを寄せたまま煙草を咥える俺に、
「だって一度も名前で呼んでもらったことないんだもの」
そう言って、もう一度小さく笑った。
「それだけで充分よ」
その時俺は、そんな事いつでも出来るだろうと思っていた。
だから「バーカ」と呟いて笑ってやった。
……バカはどっちだ。
本当はもっと早くそうしてやるべきだったんだ。
彼女の為じゃない。
……自分の為に。
その数日後、誕生日を目前に、お前はいなくなった。
あの時の微笑みは、今思うとどこか寂しそうだった。
そしてそれは、いつまで経っても脳内から消えやしない。
お前はもういない。
解ってんだよ、そんな事。
だけど実感が湧かない。
当たり前の様に傍にいて、笑っていたから。
いなくなる事なんて考えた事もなかった。
……一体どうすりゃいいんだ。
いなくなったお前の影を、必死で追い求める俺は。
人ハ、弱ク、脆ク、儚イ―――……
どうしていなくなる前に、抱きしめてやらなかった。
どうしていなくなる前に、名前を呼んでやらなかった。
どうしていなくなる前に、気持ちを伝えなかったんだ。
後悔だけが募っていく。
人が脆く、儚い事を知っていただろう。
人が弱い事を知っていただろう。
「本当、バカはどっち……」
優しい声は、もう届かない。
何かが頬を伝った気がした。
握り締めた拳は、小さく震えていた。
……そして。
脳内では再び、低い声が鳴り響いていた。
―――遅スギタ。今更何モ出来ヤシナイ。
俺はこの先、嘆き、悲しみ、足掻いて生きるだけ。
そう、心の声が低く唸った―――
浄化されぬ想い。
後悔、苛立ち、哀切、後悔―――……
それらを身に纏って、今日も俺は生きている。
灰はもう、バラバラになって風に流されていた―――
――――――――――
ヒロインは事故で逝ってしまったという設定で。
こんなんばっかだな、私……