太陽が隠れて見えない、どんよりとしたあの日。
私は、一番離れたくない人の隣を去った―――
『足枷になる前に』〜月の終末〜
残念ながら―――
その後に続く言葉なんて、初めから予想はついていた。
あのいつもと違う待合室の雰囲気が物語っていたから。
予想がついていた筈なのに、
そう告げられた時、私は目の前が真っ暗になった気がした。
真っ暗な中で浮かんだのは―――
たった一人の、優しい微笑み。
重い瞼をゆっくり開く。
今日で見納めの景色がぼんやりとした視界に映った。
私の左隣で眠る彼の頬をそっと撫でる。
本当はずっと見ていたかったけど……
そんな事を呟いた後に、私はそっと窓の外を見やった。
「太陽、隠れてる……」
外にはどんよりとした分厚い雲が、ゆっくりと流れていた。
照らす存在が隠れていると何だかとても切なくなる。
―――だって、世界がすべて暗く見えるから。
太陽がないとぼんやりとしてしまうこの世界。
でも、この暗い世界に私は敢えて進む事を決めた。
私の世界を照らしてくれる太陽のような彼は、今日からもう傍にはいない。
彼は明るい道を、私は暗い道を。
太陽と月のように、私たちはこれからを生きていく。
ひとつ大きく息をついて、私はゆっくりと彼の傍を離れた。
昨日書き上げた数枚の便箋を封筒に入れ、
隠しておいた荷物をそっと持ち上げ、玄関の方へ向かった。
一歩一歩、違う道へ。
彼とは違う、別の道へ。
ノブに手を掛けて、私はもう一度だけ振り返った。
「……さよなら、トシ」
そうしてパタンと、ドアは哀しい音を立てた。
あの日。
自分の命の期限を告げられたあの日。
浮かんだのは貴方の姿。
私の一番大切な、かけがえのない人。
『ずっと一緒に』と誓ったのに。
『ずっと護り続けるから』と言ってもらったのに。
私は貴方を一人にさせてしまう……
そう思うと、涙が止まらなかった。
止まる筈がなかった。
私はただ、彼と二人で幸せに生きたかっただけなのに。
『別れ』は唐突に、私の前に立ちふさがった。
私を産んですぐに亡くなった母は、元々弱い人だったと聞いた事がある。
まさか、自分までその遺伝子が受け継がれているなんて……
私を産んでくれた事にはとても感謝している。
だけど同時に、この時ばかりは恨めしくも思った。
大事な人とこれからを生きようとしていた矢先、
私の命の期限を知らされてしまったから……
生きる希望も意味というのも、
一瞬にして意味を持たない存在になった気がしたし、
彼と一緒に生きられないなら……と、そんな風に思ったりもした。
彼に話そうと、何度も思った。
私の命が残り僅かだと。
約束を守れそうにないから、別れて欲しいと。
だけど、どうしてもあと一歩が踏み込めなかった。
私が病気の話をしたら、貴方はひどく心配するでしょう。
自分の事のように悩んで、考えて、気にかけてくれることでしょう。
心配してくれる事は嫌じゃない。
正直な話、むしろ嬉しいぐらい。
でも……
私の事で、余計な心配をかけたくなかった。
ただでさえ忙しいのに、不安にさせたくなかった。
そして何より……
もしも話したら、彼の明るい未来を台無しにしてしまうんじゃないかって。
重荷になってしまうんじゃないかって。
言おうとすればする程、その思いが深まるばかりで……
どうしても言えなかった。
そうして一人で考えて、たどり着いたひとつの結論。
それは、貴方の元を去る事だった。
どうせ一人にさせてしまうのなら、重荷となってしまうぐらいなら。
今ここで離れた方がいいのでしょう。
早いうちに別れを告げよう。
そうしないと、いつまでも離れる事が出来ないから。
貴方の傍で生きたいと願ってしまうから……
だから―――
そう決めた時、この世を去ることにはもう踏ん切りがついていた。
死には誰も抗う事なんて出来ないから。
今更命の期限を恨んだって、何も変わらない。
仕方のないことなんだと、思えるようになった。
ただ貴方の事に関しては、
すぐに割り切れる程の気持ちを持ち合わせていなかった。
本当は離れたくなんかない。
ずっと傍にいたかったよ。
……貴方に出会って初めて、一人が怖いと知った。
それはつまり、それだけ私はとても幸せだったという事―――
貴方に出会えた事、貴方の隣に立って笑い合えた事。
私の短い生涯で、これ以上の幸せはない。
……そう胸を張って言い切れるよ。
その幸せだけで、私は充分だよ。
出逢えた事、それだけで自分の運命に感謝するべきだと思うの。
出逢えなかったら、一生こんな幸せを感じる事が出来なかったと思うから。
これ以上は、きっと望んではいけない。
だから、決意した。
私の事を忘れてもらって……
彼が新しい人生を歩き始めた時、私は遠くの地でこっそり逝く事を。
貴方のいない、遠い世界へと。
これが本当に正しい選択かと聞かれたら、yesとは言い切れない。
彼を想うなら、他にいくらでも選択肢はあった筈。
……でも。
ただ単に、私がずっと傍に居たかっただけ。
離れる決意が出来るまで、隣で笑っていたかっただけ。
貴方の不安そうな顔は、見たくなかっただけ。
単なる私のわがままかもしれない。
でも……これしか思い浮かばなかったの。
貴方は、寂しい思いなんてしなくていい。
不安になんかならなくていい。
笑っていてくれれば、それでいい。
不安になるのは、私だけで充分だよ。
暗闇に引き込まれるのは私だけでいい―――
「本当に行ってしまうんだな……」
「はい」
誰もいない、明け方の屯所門前。
寂しくなるなぁと呟く近藤さんに、
私は丁寧に閉じた封筒を渡し、お世話になりましたと頭を下げた。
「近藤さん」
「ん?」
大事そうに封筒を受け取ってくれた彼に、私は呟くように言った。
「あの人を……どうか、よろしくお願いします」
もう一度深々と頭を下げる。
その時、もう2度と戻る事のない部屋が鮮明に脳内を駆け巡った。
その中には、たった一人残される彼の姿が見えた気がした。
彼の掌がポン、と私の頭の上に置かれた。
「……任せておけ」
そっと微笑んだ彼に私も少しだけ頬を上げて挨拶をし、
お元気でと別れを告げて、一歩を踏み出した。
近藤さんに渡したあの手紙は、
私が去った一ヵ月後にトシの手元に着くように頼んだ。
唯一事情を知っていて、信頼できる近藤さんだからこそ預けた彼宛の手紙。
あの手紙を彼が読む頃にはきっと……
きっと私は。
脳内を掠めた、この何とも言いようのない感情。
それを抱きつつ、私はゆっくり歩いていった。
未来が見えない、暗い道へ。
太陽のない世界を歩いていく。
それはどれだけ不安で恐ろしい事なんだろう。
でももう立ち止まる事は出来ない。
それでも私は進んでいかなければ。
どうしても我慢できなくなり、
名残惜しむようにもう一度だけ振り返って、
見える筈のないあの部屋の彼へと小さく微笑んだ。
「……ありがとう、トシ」
冷たい雫がポタッと一滴、乾いた道の上に跡を残した―――……
彼の重荷になるくらいなら。
彼の不安の種になるくらいなら。
―――彼の足枷になる前に……
失った太陽を大事にしまいこんで、月はゆっくり時を進める。
そう長くはない時間を―――